昭和41年06月12日 朝の御理解
昨日、久留米の野口さん達と富永さんと、馬田さんと親子三人で、あのいろいろ話しておられる中に、とし子さんというのが三つでしょうか。もうこの人達は、どうかあれば御神酒さんで、御神酒さんを頂かなんならんもんと思うておる。またお神酒さんを頂けば良くなるもんだと思うておる。昨日の下の、(?)具合が悪かったわけ。「おばあちゃん御神酒、おばあちゃん御神酒」というて、お神酒さえ頂かすればもう、おかげを頂くとこう思い込んでおるという話をしておった。また、実際、それが拝めておる。
私共もそうであった。どうかあればもうご神米、御神酒さん。薬と言った様な事は、くの字も言ったこともなかった。まあそういう風に教え込まれてきた。思い込むと言う事は本当に有り難いことだとこう思う。段々お参りをさせて頂いて、お願いに行けばおかげを頂くと思い込んでおる人がある。またおかげを受ける。だからというてその、それで信心を頂いておる、本当の値打ちというのではないと、私は思うのですよね。
また、その思い込みもないながら参っておる。参らにゃ気持ち悪いから参っておると、言った様なものもありますね。お互いが一つの思い込みが、出来るところまでの信心を、進めていくと同時に、それだけでは信心を頂いておる、幸せと言う事ではない。昨夜の御理解の中から頂いておりますように、金光様の御信心とは、どんな御信心だろうかと。例えば、近所に金光様があった、近所の人達にあそこの、椛目に参りござるげなが、金光様ちゃどげなところじゃろう。
「おかげの頂くの。」「おかげ頂くよ。」と。言う様な事ではなくてですね、本当にあのお道の信奉者の一人一人が、やはり、金光教の信心とは、結局私を見て下さい、私のここを見て下さいと、言う様な信心にならなければならない、ということでしたけれども、そこまでいかなければ、私は信心を頂いておる、幸福というものは無いと思う。信心が道による教えによってです、私が本当に助かっていきよる、その姿を見て下さい。私一家を見て下さい。
また金光様が一つの、何というですかね、アクセサリー的なもの、飾りのように金光様の信心をしておるというだけ。その家のいわば中心にもなっていない。神様が脇役を努めてござると、言った様な信心から、まぁいかにまた、私を見て下さいというても、私一家を見て下さいというても、誰もついてきやしません。先ず私を見て下さい、私の一家をと言えれる、しかもそれが、それを言い放たれるというだけの信心になってくると、誰だって幸せを望まないものはない。
願わないものはないのですから、やはりついてこなければおられない。信心の教えというものが、信心の道というものが、道を行じておる、その教えを頂いて、日常生活の人達なら、とにかく私を見て下さい。金光様の信心ちゃどう言う様な信心ですか、一遍お参りしてみなさいと。参りでろうかと。話が有り難い喜びが頂ける。と言う様な事ではまだ本当の幸せではない。教えが自分の血に肉になり、一家がその教えによっていわゆる一家の中心になるものが、信心であるといようになった時。
一切が信心でです、ね、動きを持っておるところの家庭。そう言う様な私はおかげを頂かなければならない。本当にその私が助かっておる、姿をもつ私一家が、信心によって助かっておる、それを持って、金光様の御信心とはこういう信心だと、いうのではなくて、私共の信心を見て頂ければ大体分かるでしょうと、私共がおかげを頂いてる姿を見て下さいと、言う様な信心にいかなければ、信心を頂いての幸福にはなってこない。どうでも一つ、段々思い込みが出来てきましたね。
小さい子供の時から金光様金光様と願っておりました。やはりどうかあっても、ちょっと怪我をしましてもお神酒さん、ご神米、それでおかげを頂くものだと思い込んでおるから、思い込みに対する、そこのところの対するおかげだけは頂く。ね。月の内二へんか三へんしかお参りしてこない人でも、もう殆どがお願いに参ってくる人。それはお願いすりゃおかげを頂くという、一つの段々思い込みが出来てきた。また思いこんでおる人がおる。やはりおかげを頂いておる。
それで信心を頂いておる、その頂いても本当の幸せということではない。信心はどこまでも自分の身が自分の心が教えによって助かる。一家の中にその信心が中心にいよいよなってから始めて信心を頂いておるものの、幸福というものがある。今日もそれが、果してそう言う様な私を見て下さいと、私一家を見て下さいというだけの信心を頂いておる人が少ない。というほどにです、私は教えを本気で頂いておらない。迫力のある信心をしていない。そういう人が少ないという事があるようですね。
ならそしてそう言う所から、信心を頂いておる有難さを分からせて貰う信心に、進まにゃいけません。ね。信奉者である、椛目にお参りをして、( ? )けれども、神様がいつも自分の立場にです、主の立場じゃない、ね、ただ金光様が横どんついてござるというだけ。金光様が私のいわば命、いや命以上のものである、家の中心である。一切が信心になってと言う所まで行かなければ、本当の信心を頂いておる値打ちはないですね。
どうぞ。